第169回芥川賞候補作、乗代雄介の「それは誠」を読みました。
169回候補作、最後の作品です。
乗代雄介、芥川賞、取らせたい作家のひとりです。
担当編集者より:
乗代雄介さんといえば、純文学系作家の登竜門である野間文芸新人賞と、三島由紀夫賞を立て続けに受賞し、次代を担うホープとして期待を集めている作家です。この最新作も、7月19日に選考会が開かれる第169回芥川賞の候補作に選ばれています。本作は、これまでの作品同様、「大都会でもなく、観光地でもない」絶妙な土地が舞台になっています。そして、そこを目指すのは、修学旅行で東京を訪ねた4人の高校生たち。自由行動の一日を使った、先生たちにも秘密の、小さな冒険です。では、彼らはなぜその場所を目指すのでしょうか? そこは本文を読んで頂くとして、いずれにせよ、読み終わった後に、ありふれた風景がまったく違って見えてくるはずです。生の輝きが浮かび上がる傑作中編に、ご期待ください。
少し長いですが、まずは導入部を・・・。
修学旅行から帰った翌日のしかも土曜日に学校があるのはどうかと思うけど、僕だって特別な事情がなければ風邪で寝込んでるなんて言い訳せず、ちゃんと登校したはずだ。でも今日だけじゃないんだな。僕は明日も明後日も寝込んでて、あと何十日か、事情次第じゃ何百日でもおかしくない。事情っていうのは、今始まったこれ――高校二年の東京修学旅行の思い出――をいつ書き終えるのかということだ。
例の居心地悪い自然な導入ってやつになる前に、僕の作業環境を書いておく必要がある。築五十年弱、リフォーム済みの木造建築の二階、六畳の部屋、小三以来の学習机と木製椅子。机の横のくすみきったアルミ棚には古式ゆかしい自作PCが鎮座して、ポリ塩化ビニルの透明マットが敷かれた机の上はモニターとキーボードにマウスを置いたらほとんどいっぱい。モニターはともかく、キーボードなんか県道沿いの古めかしいリサイクルショップの箱から引っ張り出した時点で相当な年季もので、ストロークは海より深く、ラバーカップは山より硬い。雪原を歩くのに似ていながら、それにしてはキャップがカチャカチャやかましいし、その印字も真ん中に焼夷弾を落とされたみたいに剥げまくりだ。何一つまともに読み取れない灰色の足場の一つ一つを、僕の頭に浮かんだ通りに指で踏み分ける。ためらいみたいな抵抗を湛えた一歩一歩が、古めかしいPS/2コネクタから変換アダプタを経てUSBから入力されて、ディスプレイ上に文字として表示される。耳は所構わず唾を吐くみたいな打鍵音を聞きながら、目は心が思うより少し遅れる文字が牛の涎みたいにつながっていくのをただ見ている。その上この、おかしなほどの無感覚。苦しみながら書いたとか楽しんで書けたとかはみんな噓で、そいつがリウマチ持ちだったりさっき包丁で指を切ったり報酬系に電極が埋め込まれたりしてない限り、書くことはただひたすらに無感覚だ。
涎を改行できるのは幸いだ。少なくともそこで一度口を閉じる時間がつくられる。こうして矢も楯もたまらず始めた時には忘れがちだけど、涎だって無限に湧き出てくるわけじゃない。今、少なくとも乾きは感じていない僕の内面には、切実な反射と軽薄な条件反射が跋扈して何かを消化しようとうずうずしている。涎じゃ分解がせいぜいだとしても、その丸くとろい矛先があの修学旅行に向けられているのは確かだ。あの修学旅行で取り込まれた水分が体から抜けないうちに、急ぎあの修学旅行のことを、潤沢な涎でもってだらだら書き上げなきゃいけない。舌の根も乾かぬうちにってことじゃなければ、あの日のことは一生わからないままだろう。そんなのはごめんだから、こうして学校行く間も惜しんで書き始めたわけだ。それに、教室に入って彼らと一言二言交わそうもんなら、僕はもう修学旅行について書く気なんかなくしてしまうに決まってる。その瞬間に予期する甘酸っぱい未来は、僕に生唾を飲み込ませるはずだ。僕は固い意志をもってそれを拒み、こうして一人、涎を垂らし続けることを自分に強いる。画面の上にべたべたの、二度と行かない宝の地図ができれば上出来だ。
ここまで来ればもう、自然な導入とやらには首尾よく失敗しているだろう。たかが知れてる失敗だけど、ひとまずは気後れしないで始められ
そして、ラストは…。
笑い転げている時、唐突にスマホを向けてきた松を思い出した。最後、日野駅で無理に「笑え」と言って取らされた写真も。僕はまた笑顔になってしまうところだった。媚びてるみたいだから我慢したけど、本当に笑いたかったんだ。いや、もしかしたら泣きたかったのかも知れない。我慢したからわからないけど、とにかくそういう、何かがこみ上げてくる気分だった。僕は自分の知らないところで何かが起こっているのだけがうれしいんだ。それでずっと一人でも平気なんだ。「でもそれ」不覚にも声が震えた。「言ったらダメなんじゃないの」
「だね」平気で言って写真を閉じる。「だから明日」と言ってスマホをポケットにしまう時、また体と声が近づいた撮って撮っている時だけ笑ってよ」
僕はやっぱり何かをぐっとこらえて「優勝したいから?」とくだらないことを訊い
た。
なにしろ間抜けな僕のことだから、優勝したらどうかるのかは聞きそびれた。
修学旅行で東京に来た高校生男子の冒険譚。平易な文章で、読ませます。
だんだん長くなることがいいことかどうか?それにしても長文です。もっと端的に要点を打ち出す必要があると思いました。芥川賞をそろそろ取らせてあげたい作家ですが、今回はどうでしょう?
乗代雄介:
1986年、北海道江別市生まれ。法政大学社会学部メディア社会学科卒業。2015年、「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞し、デビュー。2018年、『本物の読書家』(本書)で第40回野間文芸新人賞を受賞。2021年、「旅する練習」で第34回三島由紀夫賞受賞。その他に『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』『皆のあらばしり』『パパイヤ・ママイヤ』ある。
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