外岡秀俊の「3・11複合被災」(岩波新書:2012年3月6日第1刷発行)を読みました。東日本大震災関連の岩波新書では、内橋克人編「大震災のなかで 私たちは何をすべきか」(2011年6月21日第1刷発行)と、石橋克彦編「原発を終わらせる」(2011年7月20日第1刷発行)を読みました。
2011年3月11日に東日本大震災が起きてから、僕も自分の目で被災地を見ておきたいと思い、「気仙沼」と「石巻」を訪れました。「気仙沼」では、タクシーの運転手さんに被災地を案内してもらい、お話を伺うことが出来ました。「石巻」では石巻在住の知人が案内してくれたので、被災地の数ヶ所を訪れることができ、また、被災者の心情の一端を伺うことができました。
さて、外岡秀俊の「3・11複合被災」ですが、本のカバー裏には、以下のようにあります。
途方もない被害をもたらした東日本大震災は、歴史上類をみない「複合災害」だった。自身と大津波、そして福島第一原発事故が折り重なる中で人びとは何を思い、どんな経験をしたのか。そこから何を教訓として引き出すべきか。被災地に通い続ける著者が現地のルポをまじえながら、3・11全体の輪郭を描き、遺された課題を考える。
ここで、著者の略歴を記しておきます。
著者の外岡秀俊は、1953年札幌市生まれ、1977年唐代法学部卒業、朝日新聞入社します。学芸部、社会部、ニューヨーク、ロンドン特派員、編集委員などを経て、2011年3月早期退社します。外岡は、2011年3月末に長年勤めた新聞社を辞めて、故郷の札幌で暮らすことにしていたが、帰郷の手はずも整えていたところに東日本大震災が起きます。かつて阪神大震災では、1年余りにわたって現地取材をした経験がありました。東日本大震災では、上空から被災地を見て、その規模と深刻さに言葉を失い、その翌日から一週間、来るまで被災地を見て回ります。その時の被災者の姿や言葉が頭から離れず、思い切って、フリー立場になって被災地の取材を続けたという。
その結果、「3・11複合被災」としてまとめられました。各章の始めに著者が出会った人たちのルポを置き、それ以降で、3・11全体の輪郭を詳細に、さらにそこから何を教訓として引きだし、何が課題として残っているかがまとめてあります。Ⅰ部では大津波による被災を、Ⅱ部では原発事故による被災を扱い、Ⅲ部は再生への道のりについて書かれています。
第1章「無明の大地」として、東日本大震災から一週間後、小型ジェット機で上空から被災地を見て回るところから、この本は始まります。「途方もない災厄に、戦慄した」とあります。外岡は、東日本大震災は、歴史上にも前例のない大規模災害だったとして、その特徴を挙げています。①3・11は、かつて世界が経験したことのない複合災害だった。②3・11は、日本ではかつてないほど広域・長期にわたる災害だった。③3・11は、交通、通信、電力、物流など高度に集積したネットワークを破壊し、その影響は国内ばかりでなく、海外にまでおよんだ。
「なぜ被害は拡大したのか」、津波への対策はこれまで、①将来の地震津波の被害を想定し、その結果を地域の防災計画づくりにいかす、②津波の被害を軽減する、という二本柱で進められてきたが、今回の東日本大震災では、すべての面で、この想定をはるかに上回る津波が押し寄せ、被害を拡大した。裏を返せば、装丁画はるかに甘かったということになると指摘しています。「想定」はいつも「想定外」の現実に裏切られる可能性がある。「想定」を最大限の規模と考えることは危うく、その「想定」への備えを「絶対安心」と思い込むことは、さらに危険なことなのだと、外岡はいう。
僕が興味をもったのは「対口支援」についてです。四川大地震の復旧のやりかたに、大きな特徴があること、特定の被災地ごとにある省や特別市が、集中的に救援・復旧作業をしていること、これを中国では「対口支援」と呼ばれる方式です。利点は第一に支援が一部に集中して重複したり、逆に支援漏れが起きたりすることを防ぐ点、第二は一度パートナーを決めれば、復旧から復興まで継続的に同じ相手をささえ、深い人間関係を築くことにある。「上」から「縦」に支援を降ろすのではなく、「横」から互いに支え合う支援の仕組みです。学術会議の提言ではこの方式を「ペアリング方式」と呼んでいます。もちろん、万能ではなく課題もありますが。
「原発避難」について。政府は4月22日、20~30キロ圏内を「緊急時避難準備区域」に指定します。事故の直後、半径20~30キロ圏内で「屋内退避」を指示します。しかし、食料やガソリンの配給と言った物流の確保には、ほとんど努力の形跡が見られない。「自主避難」を要求しておきながら、その手立てや十分な支援を続けたとも思えない。「緊急時避難準備区域」に指定して「安全」という建前だけを押しつけて、実際の暮らしを支えていたいのではないかと、外岡はいう。よくよく調べてみれば、20~30キロ圏内でも放射線の低い地域があり、30キロ圏内でも、数値の高いところが出てきた。距離の同心円で切る機械的な区分が通じなくなったために、あわてて「計画的避難区域」をつくり、当てはめたきらいがあるという。
飯舘村の管野村長は、「いま一番いいたいのは、そこに住む人びとや行政には知恵があり、重いがあり、情熱があり、牛に対する愛着があるということだ。それらを活用することが、復興の原点だ。将来構想も、住んでいる人たちの思いをいかしてほしい。いまのやり方では、金がないのに、将来の保証金がどんどん高くなる。住民の暮らしをどう維持するかを考えれば、安上がりに済むはずだ」と、政府に要望します。
文科省は4月19日に、福島県内の小中学校や幼稚園などで、校舎や校庭の利用を判断する目安として、「年間被曝量が20ミリシーベルトを超えない」ようにする、という判断記ジョンを発表します。内閣官房参与を務めてきた小佐古敏荘東大大学院教授は、暫定基準の20ミリシーベルトはとんでもなく高い数値であり、容認したら私の学者生命は終わり。自分の子どもをそんな目に遭わせるのは絶対に嫌だと、辞表を提出したという。「20ミリ問題」の本質は、健康に影響があるかないか出はなく、放射線防護は「1ミリシーベルト以下」という国際合意が出来ており、社会はその範囲で原発を受け入れてきた。事故が起きたからといって、その基準を「・・ミリ以下なら安全」と切り上げることは、負けそうになってから、ゲームのルールを変更するようなものだと、外岡はいう。
「再生へ」の最後に外岡はいう。私たちはヒロシマ、ナガサキ、第五福竜丸という三度の被爆に加え、フクシマという原発事故も経験した唯一の国となった。その現実を直視して核廃絶、原発依存からの脱却を目指す以外に、私たちの出発点はないように思える、と。
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