佐藤厚志の、芥川賞候補作「荒地の家族」を読みました。
佐藤厚志は、1982年生まれ。過去に「蛇沼」「象の皮膚」などがあります。
「荒地の家族」はこうして始まります。
坂井祐治はクロマツの枝を刈っていた。肩の筋肉が熱を持って膨れ、破裂しそうだった。酷使して麻痺しかけている両腕と刈込鋏が一体となって動いた。脇を緩めすぎず、胸筋を絞るようにして枝を刈る。鋏が意思を持ち、ただ手を添えているだけでよかった。
四十歳の祐治は、年長の者らを煙たがる気持ちも、若者を侮る気持ちも双方理解できた。・・・災厄から十年以上経て、堀に沿って残る松林はまばらで、いくつかは立ち枯れが目立つ。・・・災厄に見舞われたのは、祐治が造園業のひとり親方として船出した途端だった。そしてその災厄から二年後、妻の晴海をインフルエンザによる高熱で亡くした。晴海は心労で弱っていて、最後はひとり息子の啓太を残して:脆く逝った。祐治は生活の立て直しに必死だった時期で、事態に心が追いつかず、晴海が肉体を残して魂だけ海に浚われたような思いだった。
仙台にいくと言うと、啓太も漫画の新刊を買いたいと言って一緒にきたがった。祐治は自分の企みについて啓太にはおよそ察しがついている気がした。・・・本屋で漫画を買い、一番町商店街の定食屋で昼飯を食った後、二人で喫茶店に入った。啓太が漫画を袋から出してケーキをつつき始めると、祐治は「ちょっと待ってろ」と立ち上がった。ひっきりなしに出入りする買い物客に紛れて百貨店に入ると、・・・インフォメーションカウンターで広報の星知加子さんに用事があると告げた。受付の女は祐治が誰であるかわかったように「お待ちください」と冷たく言うと内線電話を取り上げる。間もなくスーツ姿の男性社員が二人組で出てきた。
「以前にもお話しした通り、我々としましては従業員である知加子君本人の意思を尊重したいという思いがございまして、どうしても坂井様のお取次ぎをするわけにはいかなないのです」。・・・ちょっと会わせろや、と最後に言う祐治に「申し訳ございません」と上役が返す。・・・ばかばかしくなって祐治は大人しく外へ出た。振り返ると、二人組に保安員も加わって正面入り口を固めている。祐治は舌打ちをした。
喫茶店に戻ると、啓太は同じ姿勢で漫画を読みふけっていた。ケーキの皿もコーヒーカップも空だった。おかわりするか、と聞くと、啓太は首を振って「おばちゃんに会えた」と聞いた。祐治は答えに詰まった。啓太にはわからないように知加子の勤め先に押しかけたつもりだったが、自分でも白々しいと思い、「会えなかった」と正直に言った。・・・一緒に暮らしていた短い期間、啓太は祐治の再婚相手であった知加子のことを「おばちゃん」と呼んだ。知加子のほうでも「啓太君」といくらか他人行儀な呼び方をした。
晴海が死んでから六年経った頃、亘理町役場に勤める同級生の河原木達也に知加子を紹介された。奥さんの元同僚だと聞いた。河原木夫婦に子供はなく、母のいない啓太が不憫だと世話を焼いた。祐治と同学年である知加子は仙台市内の女子大学を卒業後、老舗百貨店勤務一筋で、営業部の広報室長という肩書だった。
知加子が祐治と啓太の元を去ってから、二年経つだろうか。ある日、家に帰ると啓太が放心したように一人でテーブルに座り、そこに置かれてあったという金槌を弄びながらボトル入りのコーラを飲んでいた。加知子は、と聞くとその時小学四年生の啓太は首をかしげ、食器棚を指さした。開く前から嫌な予感がしたが、案の定、中の器は全て粉々に割られていた。ただ割ったというのではなく、執拗に砕かれていた。それで祐治は知加子が出ていったと理解した。
思っていた生活と違うと知加子は話したが、祐治は曖昧に返事をした。・・・祐治はもうすでに家庭生活を第一に考えているつもりだったからだ。とにかく自分が仕事に徹することが家族のためだと信じた。知加子は流産も祐治による心労が原因だと主張した。祐治は否定できなかった。出ていってから、数十回電話をかけてやっと出た知加子に離婚届は捨てたぞ、と言うと電話が切れ、数日後に新しい書類が送られてきた。
啓太にしてみれば激しい変化だった。母を失った後、知加子が母親として現れ、その知加子も逃げるように出ていったのだから。三年前、三十七歳の祐治が知加子と再婚した時、晴海が亡くなって六年経っていた。再婚したその年に知加子が身ごもると、祐治の再婚に初めは心から賛成するふうでなかった和子でさえ喜んだ。・・・年の瀬のその日に、知加子は医師から胎児の成長がとまったとはっきり知らされた。腹の子はこの世のとば口に立ったと同時に、光りを見ることなしに呼吸をとめた。
波は祐治を追いかけてきた。建物に逃げ込んで助かったが、黄泉から伸びてきた手に、一度は足首を掴まれた気がした。感じたことのない、氷よりも冷たい感触だった。…短い人の一生で地面が破壊的に揺れtレ海が膨張する天変地異を目の当たりにした。それなら今足をつけている地面がひっくり返るという事態がなんと頻繁に起こるのだと祐治は思って。海は必ずまた膨張する。百年後か、千年後か、明日か。人の想像の及ばない、途方もない周期で海は押し寄せてくるはずだった。
・・・
ラスト、
帰ると、弁当を持たずに和子の作ったチャーハンを食っていた啓太が祐治の顔を見てスプーンを落とした。口を丸く開けている。それからげらげら笑いだした。どうした、と祐治が聞くと啓太は祐治の頭を指す。洗面所へ行って鏡を見ると、髪の毛が真っ白だった。眉毛ももみあげも無精髭も真っ白だった。呆然としている和子が「早く飯食え」と言った。
佐藤厚志の、芥川賞候補作「荒地の家族」、僕は好きですね、小説らしい小説です。特に目新しいというのではなく、昔ながらの小説です。芥川賞かどうかはともかく、応援したいですね。ただ、やや繰り返しが多いのが気になりますが…。