20年ほど前、奈良を旅行したときに、「法隆寺」を訪れました。なにしろ法隆寺には国宝、重要文化財が建築物だけでも53棟もあるという。その時映したスライドが相当数あったので、その一部をスキャナーで取り込んでみました。暑い夏の日のことでした。
ウィキペディアで「法隆寺」の項を見ていたら、「隠された十字架」を巡る論争、として以下のような記事が出ていました。僕はあまりこの種の本は読まないのですが、この本は発売と同時に話題になり、読んだ記憶が戻ってきました。
1972年(昭和47年)に梅原猛が発表した論考「隠された十字架」は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、出雲大社との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じる為の寺なのではないかとの説を主張したが、歴史学の研究者のあいだでは、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であった。
法隆寺で購入した観光客用の「法隆寺」という本には、「法隆寺は聖徳太子が御父用明天皇を始め、御代々の天皇のためにお建てになった寺である」と、最初に書かれています。厩戸(うまやど)皇子、つまり聖徳太子は敏達天皇の3年(574)に生まれ、史上初の女帝推古天皇のために、19歳のとき摂政になります。太子は蘇我氏と結んで大陸文化の摂取につとめ、仏教文化を盛んに吸収しようとされます。蘇我氏が建立した法興寺に対して、法隆寺を建てます。17条の憲法をつくり、冠位12階を制定したりします。
現在の法隆寺は、ほぼ300m平方の広さをもち、周囲に土塀をめぐらし、その南面中央に「南大門」を開き、ここから入って北に進むと「中門」があり、中門から「廻廊」が東西に延び、やがて北に折れて「講堂」の左右につながっています。この廻廊が囲む空地には西に「五重塔」、東に「金堂」を配し、講堂の左右には「経藏」と「鐘楼」、講堂の北には「上御堂」が置かれています。
法隆寺の諸堂のなかで、金堂と五重塔、中門、廻廊が飛鳥様式の建築として、歴史的によく知られています。これらの建築は、再建論争もありますが、世界最古の木造建築であり、共通する特徴として、①エンタシスの柱、②撥蟇股(ばちかえるまた)、③卍(まんじ)崩し勾欄(こうらん)、④雲斗(くもと)雲肘木(くもひじき)を使っていること、が挙げられています。エンタシスの柱は、ギリシャの神殿建築に使われています。
以上は「西伽藍」ですが、「東伽藍」には、六角形の「夢殿」や「伝法堂」、吉田五十八の設計による「中宮寺」があります。
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