中島国彦の「森鴎外 学芸の散歩者」を読みました。
恋愛、性欲、大逆、殉死──多彩な、時にスキャンダラスな小説を次々発表。翻訳や論争や雑誌活動にも精魂傾け、軍医高官として論文執筆や公務もこなす。荷風や啄木や一葉など後進の作家にも目をかけ、子どもたちからは優しいパッパと慕われる。「時代より優れ過ぎた人」鷗外の歩んだ遥かな道程を、同時代の証言とともに辿る決定版評伝。
中島は以下のように言う。
これまで明治・大正の多くの文学者を論じてきたが、調べれば調べるほど、誰もが鴎外とつながっていることを実感してきた。鴎外は近代文学の結節点なのである。(「あとがき」より)
永井荷風
先生は「社会」と云ふ窮屈な室を出で、「科学」と云ふ鉄の門を後にして、決して躓いた事のない、極めて規則正しい、寛闊な歩調で、独り静に芸術の庭を散歩する。・・・自分は先生の後姿を遥かに望む時、時代より優れ過ぎた人の淋しさといふ事を想像せずには居られない。(永井荷風「鴎外先生」)
二葉亭四迷追悼
洋上の二葉亭を想像した後で、「あゝ。つひつひ少しく小説を書いてしまった」と鷗外は書くが、その言葉には、自分と二葉亭の運命を重ねる心境が隠されていよう。人間二葉亭と、それを見つめる鷗外が重なる。
その直後、鷗外は「新潮」(1909年12月)に寄せた談話「予が立場(Resignationの説)」を発表する。「私は私で、自分の気に入った事を自分の勝手にしているのです」と言い、「西洋にある詞(ことば)で、日本にない詞」として「Resignation」(諦念)が自分の立場だと表明し、「文芸ばかりではない。世の中のどの方面に於いても此心持でゐる」とする。が、この「諦念」は消極的なものではないだろう。一見そう見えるものの内部に秘められたエネルギーこそ、わたくしたちが見据えなければならないものなのである。
と、中島は言う。
「観潮楼」について
荷風の随筆「日和下駄」より
「根津の低地から弥生ヶ岡と千駄木の高地を仰げばこゝも亦絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の坂の中で、この道ほど興味のある処はないと思ってゐる」とし、「当代の碩学森鴎外先生のお屋舖はこの道のほとり、団子坂の頂に出やうとする処にある」と紹介する。
ここが観潮楼跡に、2012年に開館した、文京区立「森鴎外記念館」である。
「青年の世界」
鴎外の「青年」(1910年~1911年)に、エドゥアール・マネの「ナナ」が取り上げられているという。
純一が国にゐるとき取り寄せた近代美術史に、ナナという題のマネエの画があって、大きな眉刷毛を持って、鏡の前に立って、一寸横に振り向いた娘がかいてあって。その稍(や)や規則正し過ぎるかと思はれるやうな、細面な顔に、お雪さんが好く似てゐると思ふのは、額を右から左へ斜に掠めてゐる、小指の大きさ程づつに固まった、柔かい前髪の為めもあらう。
お雪とは、純一の貸りた谷中初音町の家のそばに住む愛らしい娘です。
目次
プロローグ――自伝と証言の間
Ⅰ 林太郎として生まれて──日本とドイツ
1 故郷と両親――青野山に見守られて
2 医学に導かれて――上京と医学校生活
3 ドイツ留学――諸都市をめぐる
Ⅱ 鷗外への変貌──創作と軍務
4 ドイツ三部作――エリーゼ事件と最初の結婚
5 翻訳と論争――応答する自己
6 「観潮楼」での新しい試み――『美奈和集』の成立
7 小倉での日々と再婚――新たな出会いと別れ
Ⅲ 飛躍する鷗外──文壇への復帰
8 東京への帰還と日露従軍――『うた日記』の世界
9 新しい表現を求めて――『スバル』での活躍
10 小説世界を広げる――『青年』の心理
11 大逆事件に向き合う――「かのやうに」『雁』「灰燼」
Ⅳ 林太郎として死す──歴史と人間
12 明治の終焉――「阿部一族」「安井夫人」の造型
13 歴史小説の展開――「山椒大夫」「高瀬舟」の試み
14 史伝の世界――「澀江抽斎」「北条霞亭」の境地
15 晩年の仕事――遺言に至る道
エピローグ――移ろい、よみがえる鷗外
鷗外略年譜
あとがき
鷗外作品名索引
中島国彦:
1946年東京生まれ.早稲田大学大学院修了.博士(文学).現在早稲田大学名誉教授,日本近代文学館理事長.『白秋全集』『荷風全集』『定本 漱石全集』(岩波書店)などの編纂に携わるとともに,日本近代文学館の活動に尽力し,近代作家の新発見資料の調査跡づけも行う.著書に『近代文学にみる感受性』(筑摩書房,1994年,やまなし文学賞),『漱石の地図帳──歩く・見る・読む』(大修館書店,2018年),『漱石の愛した絵はがき』(共編,岩波書店,2016年)など.
過去の関連記事: