小川洋子の「掌に眠る舞台」(集英社:2022年9月10日第1刷発行)を読みました。
小川洋子の小説、まだ読んでいないものが、(ほとんどは文庫本ですが)10冊近くあるのに、新刊が出ると気になってついつい買ってしまいます。ということで買って読んだものがこれ、「掌に眠る舞台」です。
「掌に眠る舞台」は8編の物語を収めた小説集で、初出誌は「すばる」、2020年12月号から2022年2月号にかけてのものです。「掌に眠る舞台」の目次をみると、「すばる」に掲載された順に並んでいます。
「だって人は誰でも、失敗をする生きものですものね。だから役者さんには身代わりが必要なの。私みたいな」
交通事故の保険金で帝国劇場の『レ・ミゼラブル』全公演に通い始めた私が出会った、劇場に暮らす「失敗係」の彼女。
金属加工工場の片隅、工具箱の上でペンチやスパナたちが演じるバレエ『ラ・シルフィード』。
お金持ちの老人が自分のためだけに屋敷の奥に建てた小さな劇場で、装飾用の役者として生活することになった私。
演じること、観ること、観られること。ステージの此方と彼方で生まれる特別な関係性を描き出す、極上の短編集。
僕が「掌に眠る舞台」8編のなかで最初に読んだのは「ダブルフォルトの予言」でした。どうしてそれを最初に読んだのか今となっては思い出せないんですが、帝国劇場でのミュージカル「レ・ミゼラブル」の全79公演、S席のチケットを全部買って、観た女性の話でした。79枚分のチケット代は、思いがけず転がり込んできた交通事故の保険金があったから。.40になったばかりの夫が肺癌で死んだ後、借金をしてはじめた洋品店を30年続け、どうにか老後の生活の目途が立って店じまいをしたところだった。
帝国劇場の前を通ったのは、霞が関のビルでの無料法律相談を受けたあと、お濠の近くをぶらぶら散策している時だった。午後の3時過ぎで、昼の公演が終わり、観客が劇場を出てゆくところ。彼らの雰囲気は、明らかに他の人々とは違っていた。彼らは一様に高揚し、足取りは軽やかで、目に力強さがあつた。こんな流れの一員に自分もられたらいいのに、とその時ふと思った。店をたたむのと交通事故とその後の処理ですさんだ心が、劇場に引き寄せられてゆくのが分かった。
開幕から13日目、昼の部、18公演の幕間、「こんにちは、毎日来ている人ですね」、心持ち首を傾けてその人は言った。「あなたも、よくいらっしゃるの?」、すると「いらっしゃるも何も、ここに住んでいるんだから」と、思いがけない答えが返ってきた。「本番の間、私はここに居て、自分の役目を果たさなくちゃいけないの。役者さんたちが失敗しないよう、私が身代わりになるの」と彼女は言った。「だって人は誰でも、失敗をする生きものですものね」。「だから役者さんには身代りが必要なの。私みたいな」。
とうとう恐れていた日がやって来た。79公演め、「レ・ミゼラブル」帝国劇場の千穐楽だった。最初、すべてのチケットを手に入れた時には、最後の日のことなど想像もできなかった。しかし何度確かめても、残りのチケットは一枚きりだった。
小川洋子:
1962年岡山市生まれ。早稲田大学第一文学部卒。88年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞。91年「妊娠カレンダー」で芥川賞受賞。2004年「博士の愛した数式」で読売文学賞と本屋大賞、同年「ブラフマンの埋葬」で泉鏡花文学賞を受賞。06年「ミーナの行進」で谷崎潤一郎賞受賞。07年フランス芸術文化勲章シュバリエ受賞。13年「ことり」で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。20年「小箱」で野間文芸賞を受賞。21年紫綬褒章受章。「約束された移動」「遠慮深いうたた寝」ほか著書多数。
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