島口大樹の、芥川賞候補作「オン・ザ・プラネット」を読みました。
島口大樹は98年生まれ、23歳です。
「鳥が僕らの祈り」で今年群像新人文学賞を受賞しています。
さて、どこから書けばいいのか、分かりません。
若い人たちの、このような小説は、僕には最も苦手です。
でも、しかたがありません、乗りかけた舟、なんとかでっち上げなければ…。
この小説は、同じ車に乗り込んだぼくら4人は映画を撮るために、というかぼくが映画を撮るのに付き合わせて鳥取を目指しています。これは映画でいえば、まさにロードムービー、ですね。
以下、ウィキペディアによると、
ロードムービー(road movie)は、映画のジャンルである。旅の途中で起こる様々な出来事が、映画の物語となっている。演劇では歌舞伎や浄瑠璃における「道行」(みちゆき)、文学における東海道中膝栗毛などの「旅行記」「紀行」「道中記」、和歌における「羇旅」にあたる。
主だった物語はその道中で起こり、その道中が作品のタイトルに含まれていることが多い。 道中の過程の描写がメインであり、ストーリーの結末は曖昧な作品も多い。
ということで、ロードムービーは、映画の名作でいえば、「道」、「イージーライダー」、「スケアクロウ」「スタンド・バイ・ミー」などが挙げられます。が、「オン・ザ・プラネット」は、どれとも異なります。
重要な部分が抜け落ちているかもしれませんが、とりあえず、島口大樹の文章を引用しながら、以下に書いてみます。
「オン・ザ・プラネット」は、次のように始まります。
どれくらい経ったかわからない。いつからか風の音がしている。その世界を知るためのものはまだそれしかない。近くでか遠くでか鳴っているのはおそらく風の音だがそれも定かでない。何も見えない。音だけがある。でも風は元々音しかない。目には見えない。目に見えているのは風が吹いている証拠だけで、それは風ではない。
そこには砂浜がある。やわらかい音の正体は砂浜だったのだ。・・・4人が通り過ぎた後の砂浜のままだ。「終わったのかな」「なにが?」「世界?」・・・「世界は終わったみたい」「おしまいだ、何もかも」風の音と嘆息だけが聞こえてくる。「そんなことがありえなくね?」・・・「まあ、ありえないな。世界が終わるとか。そうそう終わらないだろ」。
「ありえないことだって、映画の中では起きるだろ。小説だってそうじゃん。カフカの変身だってそうじゃん」というぼくに、規模が違うだろ規模が。とトリキが言って、そもそも規模は問題なのだろうかと思いつつ、再び車の天井に張り付けられたラッキーストライクを眺める。・・・とぼくの隣、運転席に座ったマーヤの方を見ると、彼女はぼくを含めた3人の言動に一切の注意を払わず、絹のように白みがかったショートの金髪を真っ直ぐに垂らして顔をこちらに見せることなく、集合して横浜駅を出発する前にぼくが印刷して皆に渡した脚本を読んでいる。その姿を見て、「ナイト・オン・ザ・プラネット」とぼくは声に出している。
僕らの人生は人生のほとんどを構成する日常は、当人の意思や恣意にかかわらず訪れる大抵の出来事、の持つ固有の運動の重なり合いの上にあり、むしろそっちの運動に引っ張られて暫定的にとどまった地点からまた同じことが繰り返されるようにして紡がれていく。
そう考えると、微妙な塩梅、決定的と言わざるをえない精度、と言うのはほとんどトートロジーで至極当然なことで、固有の運動に引っ張られながら直面し、過去になった出来事と言うのは、決してこちらが選ぶことのできない時機や性質、が寸分違えばその後に積み重ねられていくすべてがズレていくもので、日常というものは端からそうした微妙な塩梅、決定的と言わざるをえない精度の繰り返しの上に成り立っている。
ぼくら4人がここにいて同じ車内にいることを説明するには、この計画を立てた喫茶店での話、から遡りぼくらの出会い、それとは別で、なぜぼくが映画を撮っているか、まで補足が必要で、例えば、ぼくが小さい頃に父さんが自殺してみなしごになり、早々に姉は出ていき、心を慰めるのが映画だったから、と言ってしまうのは簡単だけれど、実際はそんな簡潔に言えるものではなく、むしろそういう安易な因果関係に縋ったときにほんとうのことがその陰に隠れていく。
今、と言う間にもぼくらの両手から零れ落ちていく今、経験していく出来事、そしてその中で五感や思惟を躍動させて得たものは、決して思い出されなくても、それらを経験した肉体や意識という形で還元される。ぼくらは思い出されなくても経験していて、それらは思い出されるいつかの為でもあり、また、数秒前とは違う肉体、この意識を有した肉体がその都度更新され、そこからまた別のことを考え、感じることができる、ということに繋がる。
人と人が交わる時、世界が立ちあらわれる。島口はそう言ったけれど、そういった意味合いで世界という言葉を用いるとしても、それはあまりに狭義だ。人と、人がつくったもの人が生み出したもの、映画、小説、音楽、絵画、詩、服でもなんでも、その他諸々のものが交わる時、邂逅する時、出会う時にも、ほんとうの世界は立ちあらわれるのではないか。人が何かを生み出すという行為はまさしく、目の前の、頭の中の、この世界の内外の、事象現象を捉えようとする眼差しによって生まれるものだから。そして双方からの働きかけがあるとき、それは現実と虚構どちらにも属さない、その二項対立から離れた別の世界が立ち上がるのではないか。
この小説に書かれていることはすべて事・・ただ、全てが事実だと主張はするが、おそらくすべてが事実ではないだろう。おかしなことを言っているように思われるかもしれないが、残念ながらすべてが事実なんてことはありえない。・・・すべては事実である、という命題はますます疑うべきものに近づいている。だが、別にそれでいい、というよりも致し方ない。過去は忘れられる前提にある。この世界はいつだって揺らいでいて不安定だ。
この小説に書かれていることはすべて事実だ。・・・すると読者のあなたは、これはすべて事実だ、と作者は主張していることを知る。だが、作者がこれはすべて事実だと主張することと、あなたがすべて事実だと認識することは、ご存じの通り、全く違う別の問題である。・・・ただ、すべて事実だと主張はするが、おそらくすべてが事実ではないだろう。おかしなことを言っているように思われるかもしれないが、残念ながらすべてが事実なんてことはありえない。
・・・すべては事実である。という命題はますます疑うべきものに近づいている。だが、別にそれでいい、と言うよりも致し方ない。過去は忘れられる前提にあり、思い出せない記憶がある、ということも前提にある。この世界はいつだって揺らいでいて不安定だ。
・・・繰り返すが、すべて事実である。
と、島口大樹の「オン・ザ・プラネット」は、こうして終わります。
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朝日新聞:2021年12月17日