伊藤比呂美の「ショローの女」(中央公論新社:2021年6月25日初版発行)を読みました。
最近、伊藤比呂美にハマっています。過去の本を買い集めています。
「初老」とは、40歳の異称。また、老人の域にはいりかけた年頃。寿命がのびた現在では、50歳から60歳前後をさすことが多い。女性では月経閉止期、男性では作業能力が衰えはじめたときから老化現象が顕著になるまでの期間。
(「精選版日本国語大辞典」より)
解説の金原ひとみは、「現代では60前後を指すようだが、閉経記を指す言葉、とはなんと憂鬱な言葉だろう」と続けています。
本書には確かにリアルな老いが描かれている。体力の衰え、姿勢の変化、歩くのが遅くなり、人の目を気にしなくなり、ちょっと会話するだけで40年前に還る。しかし同時に、書き続けること表現し続けることで、孤立しながらにして巨大なピラミッドのような安心感を得、また与える境地に到達したその生き様こそが詰まっているように感じられる。無骨なのにスマート、愛の中で孤独、柔軟な一本鎗。奇妙なバランスで成り立った奇跡のショローがここにある。
(「孤立しつつピラミッド的安心感」)
この本は、
今は日本にいる。熊本に住んでいる。三歳の雄犬のクレイマーと暮らしている。そして早稲田大学で教えている。週一で熊本-東京間を通勤し始めた。そしたらこれがどうして、チョロくなかった。ともかく62歳だ。あちこちにガタが来ている。なにしろ羽田から早稲田までが遠いのだ。
と始まり、
早稲田の卒業式だった。ひっそりと寂しい卒業式だった。といっても去年はコロナで卒業式がなかったし、一昨年は知らずにアメリカに帰ってしまっていた。つまりあたしにとっては今年が最初で最後なのだ。・・・そして3年間ほったらかしにしてあった仕事の計画も、あと何年働けるか(書けるか)、どんどん衰えてくる体力を考えたらうかうかしていられない。
と終わった。
つまり、
新しい生活が始まった。熊本‐東京を行き来するあたしを待つのは、愛犬(三歳)、植物(八十鉢)、学生たち(数百人)。
ハマる事象、加齢の実状、一人の寂しさ、そして、自由。
リアルに刻む老いの体感。
目次
皺の手でちぎるこんにゃく盆の入り
もういうなわかっておるわ「暑い」だろう
しみつきのマットレス敷く露の秋ち
バンビロコウ水面にうつる月の影
晩夏過ぎて顔も体もしぼみけり
身に沁むはWhatsAppかSkypeか
細道をたどりたどりてきのこ粥
くすり湯に入ってぽかぽかあったまる
白和えやほうれんそうが入って春
人は死にヨモギは残る荒野かな
春一番のぼり階段浜松町
絶望の大安売りだいもってけドロボー
ボヘミアンラプソディして桜かな
クレイマーあたしといたいかクレイマー
鍵盤にさわらぬまで春の風
うはははと山笑うわねそうだわね
青梅をもぐ母ありて娘あり
夏野原ゆめゆめ右折はするまじく
梅雨だくやしょうゆの味はママの味
梅雨明けや海を挟んで長電話
タオルつまむように仔猫ひろいけり
炎天を乳房の垂れる自由かな
秋茄子の内側も熱秘めてゐる
つれなくて愛して犬の男ぶり
いちめんのクレオメオメオあの日の夕暮れ
娘来て娘帰りし夜寒し
疲れゐる咳をしてゐる生きてゐる
春が来て嬉しいことを伝えけり
芹なずなにも成績をつけてやろ
パンにバタ載せれば透けて春うれひ
春の陽の重さの猫を飼ふだろう
遠足のいつも遠出をしなくとも
コロナ飛ぶ地球の春の憂ひかな
同じ春風距離遠くとも笑ひ合はむ
フィロデンドロン泥にまみれて夏は来ぬ
はつ夏の画面を流れ流星雨
とろろ汁啜りにけりなひたすらに
夏星をニコもとほくで見てるだろ
ゆけルンバ炎暑荒野をものともせず
うつくしき真夏や友に逢ふことなく
マスクして結ぶ命や夏の空
空飛んで生者に会へり葛の花
くるま何千里夜長の犬乗せて
台風や河原荒草怒濤なす
猫が来て草の穂綿を乱しけり
おずおずと犬猫親し秋深し
一人またひとりと消えて冬日向
霜の夜はひとりもの食ひもの思ひ
ひそかなる衰への音玉霰
秋惜しむタイとヒラメとちゅーるなか
学生と口をぽつかり冬の雨
春憂ひならbどしどし詩を書きな
そのまんま春風となれ体重計
近場なら母のコートやダサくてよし
春の夜の動植物のぱらいそぞ
どこへでもゆける花びら風まかせ
あとがき
伊藤比呂美:
1955年、東京都生まれ。詩人。78年に現代詩手帖賞を受賞してデビュー。80年代の女性詩人ブームをリードし、『良いおっぱい悪いおっぱい』にはじまる一連のシリーズで「育児エッセイ」という分野を開拓。「女の生」に寄り添い、独自の文学に昇華する創作姿勢が共感を呼び、人生相談の回答者としても長年の支持を得る。米国・カリフォルニアと熊本を往復しながら活動を続け、介護や老い、死を見つめた『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』(萩原朔太郎賞、紫式部文学賞受賞)などを刊行。2018年より熊本に拠点を移す。
朝日新聞:2021年8月14日
過去の関連記事: