2021年5月23日放送 NHK日曜美術館
「フランシス・ベーコンの秘密 バリー・ジュールコレクション」より
(以下、個人的な備忘録です)
今までに掲載したものは以下の通り。
「フランシス・ベーコンの秘密 バリー・ジュール・コレクション」その1
「フランシス・ベーコンの秘密 バリー・ジュール・コレクション」その2
「フランシス・ベーコンの秘密 バリー・ジュール・コレクション」その3
「フランシス・ベーコンの秘密 バリー・ジュール・コレクション」
その4
ベーコンの人生を取り巻いた数々の男たち。そのなかでもジュールは、晩年の14年間、ベーコンの近くにいた一人です。
フランシス・ベーコンとバリー・ジュール
ジュールのアルバムから
彼が見続けたのは、恐怖や孤独と向き合った偉大な画家ベーコンではなく、どこにでもいる老人、ごく普通の人間ベーコンでした。
彼の元にはベーコンの署名入り手紙や公文書、果ては夕食会のレシートまで、思い出の品が残されています。
なかでも貴重なのは、ベーコンの許しを得て録音された160時間にも及ぶ肉声テープ。世界で初めて公開します。
彼(ミシエル・レリス)は、シュルレアリスムに興味はあったけど、運動には参加しなかったんだ。アンドレ・ブルトンとか、シュルレアリストの人たちをすべて知っていたけどね。
ブルトンは虚栄心が強くて、とても気難しい男だと教えてくれた。
ピカソもシュルレアリスムには参加しなかったんだ。
彼らはピカソを連れ込もうとしたが、彼は決して参加しなかったね。
参加すべきことになっているクラブみたいなものだけどね。
ジャコメッティは参加したけど、その後、サルトルと格闘の喧嘩になって、離れたんだ。
ジャコメッティがここ(ベーコンのアトリエ)に来た時、そう言ってたよ。私たちはとても仲良くなったんだ。
実を言うと、彼はジョージをとても好きだったんだ。
ジュール:ジョージ・ダイヤー(ベーコンの恋人)だね。ジャコメッティはそっち(同性愛)ではなかったよね。
どうだろうね。ジャコメッティは、ジョージが本当に好きなのさ。ジョージがロンドンイーストエンドの、本当の労働者階級の出だからさ。たくさんの魅力と長所があったよ。
ジャコメッティが私にいったことを正確にそのまま言うとね。「僕は彼の言葉で、英語で思いを伝えたいんだ。僕はロンドンに移り住み、同性愛者になるべきなんだ」。
この話をフランス人にしたら、フランス語で、「ロンドンに行かなくても同性愛者になれるのに」。(ジュール)面白い話だね。
芸術談義から下世話な話まで、二人の親密な関係がうかがえます。
しかし、ベーコンとジュールの友情に満ちた日々は、突如、終わりを迎えることになります。
フランシス・ベーコンは、当時ロンドンで働いていた若いスペイン人銀行家ホセ・カペッロと恋に落ちました。私が夕食会で彼をベーコンに紹介したのです。彼らは2年間、非常に秘密の同性愛者の恋愛関係を持ちました。
ベーコンは彼にとても寛大で、彼らはヨーロッパ中を広く旅し、一緒に素晴らしい時間を過ごしました。
ほとんどの人はこの非常に秘密のロマンスのことを知りませんでした。
ある日突然、ホセは友達でいたいと告げ、関係を終わらせました。もう、恋人でいたくなかったのです。
フランシスはホセに恋していたので、踏みにじられました。突然彼は、捨てられ動転しました。
彼は人生の最後の2年間、本当にホセを取り戻そうとしました。彼はこの請われた関係について、非常に落ち込んでいました。そして創作活動に苦しみ、慢性的な心臓弁膜症も悪化していました。
フランシスが非常に落ち込んでいた時、多くの時間を一緒に過ごしました。
1992年4月18日、ベーコンはイースターの週末にマドリッドへ行き、ホセと会って恋愛関係を取り戻すことを決めました。
彼は私に、ヒースロー空港まで車で送っていくよう頼みました。
飛行機は午後2時の出発です。
言われたとおり、朝7時に行き、フランシスの用意した朝食を一緒に食べ終わると、驚いたことに、彼はガレージに案内しました。
そして彼は私の車に、書き込みされた雑誌やデッサン、たくさんの本、何枚かの古い絵を積み込むよう命じました。
車はドローイングで一杯になり、私たちは空港に行く前に、ケンジントンとチェルシー周辺を感動的にドライブしました。空港に着く前、彼がくれたアートワークをどうしたらいいか尋ねると、「バリー、君はそれをどうすべきか知っている」と言いました。それはいつか彼がそれを返すように頼まない限り、私が持ち続けるという二人の”暗号”でした。
そして私たちはアートワークとともに、よく行っていた様々な場所をドライブして空港に着きました。私は彼にさようならと堅い抱擁をしました。
フランシス・ベーコン 1992年4月28日死去
無神論者だったベーコンは、皮肉にも臨終の際、カトリックの司祭によって見送られています。
これが彼に会う最後になるとは知りませんでした。しかし私は、イギリスで彼が生きているのを見た最後の人となったのです。
ベーコンが死を迎えたのは、ジュールと別れてから10日後、マドリッドで心臓発作で倒れ、付き添う人もないまま、たった一人で、83年間の人生を閉じました。
美術評論家:酒井忠康
ただ僕が思うのは、ベーコンをやっていて、何か僕の心の中での答案ですけどね、何かある種の優しさがあるんですよ。それは分からない、僕にも。これはある種の宗教的感情と言ってもいいかもしれない。それは彼の、僕は色彩の秘密みたいな感じがする。
気持ちが揺れているところが隠されてある。壊しきれないものがある。だから黄色い色とか赤い色だとか、絵画の中のアクセントにヒントがある。
ベーコンの絵には、作為的じゃなくて、なにか自然にそうしないと絵が救われないみたいな、あるいは自分の気持ちが、これは表現者として凄いことだと思う。単に絵を描くためだけに描いているんじゃ二何か。ある種の典型みたいな感じがある。
レスリーは、ジュール・コレクションと出会った後、新しい表現を模索しています。
ベーコン、自分の生き方のメッセージを、違う部分もあると思うけど、お互いは同じ道をとっています。淋しいところとか、苦しいところとか。
彼は孤独が強い、イコール彼の絵がネガティブとも思ってないし、私の絵がポジティブとも思っていない。もう一つは、私の方が逃げている。彼の方が逃げていないかもしれない。ベーコンが一番正直かもしれないよ、そう。
ベーコンの死から29年。
未だに論議が続くバリー・ジュール・コレクション…
記事は、これで完了です。
過去の関連記事:
松濤美術館で「フランシス・ベーコン バリー・ジュール・コレクションによる」その1
松濤美術館で「フランシス・ベーコン バリー・ジュール・コレクションによる」その2
NHK日曜美術館「恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン」
朝日新聞:2021年6月15日