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佐伯一麦の「渡良瀬」を読んだ!

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watara


佐伯一麦の「渡良瀬」(岩波書店:2013年12月25日第1刷発行)を読みました。フランスへ行く前に読み終わっていたので、4月半ばには読み終わっていたことにあります。「流浪を余儀なくされながらも、大地を踏みしめて生きる人々の歩み」、337ページにもわたる大作です。


人は生き続ける限り、心の奥深くにいくつもの記憶を少しずつ積み重ねる。それらの記憶は、たいてい年齢を経るごとに移ろい変容してゆく。輪郭がぼやけて忘れてしまう部分もあれば、逆に輪郭がぼやけることで、かえって生涯にわたる意味合いを帯びてくる場合もある。


こんな的確な文章は、僕にはとても書けません。古井由吉著「半自叙伝」の書評として、朝日新聞に原武史(明治学院大学教授・政治思想史)が書いた書き出しの部分です。まさに佐伯一麦の「渡良瀬」についてもそのまま当てはまる文章です。佐伯一麦の「渡良瀬」は、まさに自叙伝であり、つまりは私小説であり、主人公の拓はほとんど作者自身だといえます。物語は1988年の9月から89年の春先まで、昭和天皇の重体報道が続いた、つまり昭和の終わりから平成へと改元される時期に合わせています。


東京で電気工としての生活を捨てて、茨城県の西の端にある古河に移り住んだまだ20代の南條拓とその家族、妻と子供たちはそれぞれの病(妻の緘黙症、息子の川崎病など)を抱えて慣れない生活に不安を抱えています。古河には配電盤をつくるための大きな工業団地があります。拓は配電盤工場へ見習い工として入ります。電気工と配電盤の組み立て工は近い職種ですが、その仕事内容は少なからず違います。見習い工の拓は、熟練工たちの言動やその慣習を見ながら少しずつ技術を学んでいきます。彼らは配電盤を作る技術にこだわり、独自の自負と美意識を持って仕事をしている者たちでもあります。


本所さんは、拓の訝し気な視線をよそに、さっさと圧着を終わらせた三本の電線を肩に抱えて盤まで運ぶと、まずCT(計器用変流器)の穴をくぐらせてから、ブレーカーの二次側の端子に六角レンチを使って接続した。それから、函の裏側に回って、切替器の上部に三本出ている銅帯に六角スパナとラチェットレンチをつかってボルトナットを締め付けて接続した。「えいっ、えいっ」と力をこめる掛け声が起った。ほんの短い時間のうちに、三本の太線は張り終わっていた。まるで、ただ一つの部品を取り付けるだけの手際のようだった。少しの電線屑も出なかった。インシュロックで三本の太線をまとめて結いている本所さんの所に、拓は思わず近付いていった。近くで見ると、三本の太線は、まるでその長さずつに決めるしかないというようにびっしりと寄り添い、無理のない柔らかな曲線を描いていた。トルクレンチで締め付けを確認して、赤マジックでチェックを終えた本所さんが、拓を仰ぎ見た。顔面が紅潮していた。その眼が、どんなもんだい、と言っていた。「原山君の確認を受けてから出荷整備をするように」と本所さんは拓に命じた。「はい」と拓は答えた。

こういう箇所は他にもたくさんありますが、配電盤を仲立ちにベテランの本所さんと見習い工の拓との交流、感動的な場面のひとつです。全篇にわたって配電盤それ自体が描写されています。これほど詳細に電気配線のことが優雅に書かれた小説は、他にはありません。佐伯の技術者としての矜恃が滲み出ています。


題名の「渡良瀬」は、拓が休日に赴く「渡良瀬遊水池」からとられています。言うまでもなく「渡良瀬遊水池」は、足尾銅山鉱毒事件による渡良瀬川の汚染浄化のために作られた遊水池です。鉱毒被害を受けた農民たちは激しい抗議運動を展開します。その意を受けて代議士の田中正造が議員を辞職して天皇に直訴したりもします。政府は住民を分断し、最後まで残った谷中村の16戸を強制的に収容して、湖の底に沈めてしまいます。しかし佐伯は、その事件を声高に語ることはしません。ただ淡々と、そして活き活きと工場での生活を描いていくだけに徹します。


佐伯一麦の「渡良瀬」は、渡良瀬遊水池の野焼きの場面で終わります。


何気なく見遣った西の空が、赤く焼けたように染まっているのに拓は気付いた。遠くで火事だろうか、となおも見続けていると、さっきまで晴天だったはずの空に、どす黒い雲が湧き上がりはじめた。「火事みたいです」と、拓は第二工場を回って第一工場の本所さんにも告げた。「ほんとうかあ」と言いながら、本所さんも一緒に外へ出た。「ほら向こうの方が」と拓は指さした。「ああ、野焼きかあ」とのんびりした口調で本所さんが言った。「そうだね、渡良瀬遊水池の野焼きの煙だね」と赤川さんも頷いた。


「毎年、あの火を見ると、今年も冬が終わったなって思わされるんだよね」と本所さんが言った。・・・「南條君のおかげで今年も見られたよ」笑いながら赤川さんが言い、三人は持ち場へと戻って行った。拓は、まだ野焼きの火から目を離せずに立ち尽くしていた。一度訪れた渡良瀬遊水池のほうぼうから、一斉に火が放たれ、葦原が燃えあがる様を想像していた。天を焦がす勢いで燃える炎は、鉱害によって土地を追われた谷中村の人々の、時を超えた怒りの烽火でもあるように拓には映った。黒い雲は見る見るうちに天を覆いつくし、朝の太陽を日食のように白くさせた。

本の帯には「20年の歳月を経て完結し、甦った、傑作長篇小説」とあります。この作品は、「海燕」に1993年11月号から1996年まで27回にわたって連載し、終刊によって中絶していたものに、大幅に訂正加筆を施し、残りを書き下ろして完結されたものです。

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