「住宅遺産トラスト 」より、「VILLA LE MAIS」見学会の案内がきたので、観に行ってきました。見学した日は雪が降った次の日、2月16日のことでした。実は前日も見学会があったのですが、雪が降ったので中止になり、16日、17日に振り替えてて見学会を行うというメールが事務局より届きました。僕は16日の11時に予約してあったのですが、混雑が予想されるため、14時からだったらゆっくり見学できるとあったので、14時に見学してきました。
「VILLA LE MAIS」は、平田重雄が設計した自邸です。といっても、平田重雄とはどういう人なのか、ご存じの方は少ないように思います。1931(昭和6)年、コーネル大学出身の松田軍平が、赤坂丹後町の自宅にて松田事務所を開設します。手持ちの仕事は三井高修別邸と、石橋徳次郎邸という二つの邸宅設計でした。同じくコーネル大学を出たばかりの平田重雄が入所します。他に2名を加えてわずか4名の設計事務所でした。鈴木博之が書いているように、まさに「邸宅建築からの出発」でした。
一般に松田平田というと、大規模設計組織と称されます。現在では所員数400名を超える組織に成長しています。代表作は、松田軍平がニューヨークのトローブリッジ・アンド・リビングストン建築設計事務所で設計し、日本で工事監理を行った「三井本館」があります。他には「ブリヂストン本社ビル」であるとか「日本銀行本店」などがあげられます。実際には松田軍平が対外的な仕事と大きな設計の方針を出し、平田重雄がデザイン的な方向性を出すなど、設計事務所の仕事を分担していた、と言われています。
「VILLA LE MAIS(平田重雄自邸)」見学会 ご案内
‘VILLA LE MAIS’(トウモロコシ荘)と名付けられた住宅は、目黒の高台に建つ平田重雄が晩年を過ごした自邸です。松田平田設計でスケールのある建築を多く手がけた平田ですが、この自邸では、建築家の内なるアメリカとモダニズムが表現され、その外観からは、昭和11年に設計された「旧石橋正二郎邸(現アメリカ公使邸)」の姿も偲ばれます。会場では、竣工当時の写真資料や石膏模型などもご覧いただけます。この度、初めて公開し、見学会を実施することで、このモダニズム住宅を引き継いでくださる方をさがします。
平田重雄自邸(目黒区三田):平田重雄設計
昭和42年(1967年)竣工。鉄筋コンクリート4階建
「VILLA LE MAIS(平田重雄自邸)」
各階平面図
平田重雄:略歴(資料提供:平田徹雄)
1931年6月 北米合衆国コーネル大学建築学科卒業
1931年7月 帰朝後同年9月松田軍平と松田建築事務所を開設
1942年9月 所名を松田平田設計事務所に改称
1941年4月~43年3月日本建築士会理事
1942年9月 日本大学建築科講師
1946年5月~47年8月戦災復興院復興特別建設局嘱託
1950年2月 株式会社松田平田設計事務所代表取締役に就任
1950年3月~50年5月戦後の建築視察のため北米合衆国に出張
1966年8月 株式会社松田平田坂本設計事務所代表取締役に就任
1988年 逝去
平田重雄:住宅作品
久留米・石橋徳次郎邸(現石橋迎賓館)1933年
下田・三井高修別邸(現須崎御用邸)1934年
広尾・平田重雄自邸(現存せず)1935年
麻布永坂・石橋正二郎邸(現アメリカ公使公邸)1936年
元麻布・田島繁次郎邸(現南アフリカ大使公邸)1937年
箱根仙石原・平田重雄別邸(庭師・齋藤勝男)1934年~1988年
目黒・Villa Le Mais(平田重雄自邸)1967年
鈴木博之「邸宅建築からの出発」(『松田平田設計:草創と継承』より)
・松田軍平が「建築事務所を開設したのは1931年(昭和6)9月のことであった。・・・三井高修別邸(下田)と石橋徳次郎邸(久留米)の設計を依頼されたことが直接の契機であったという。「一週間経つか経たぬ或る日のこと、痩せ形でスマートな青年が訪ねてきた。私の卒業したコーネル大学の後輩で前に一度会ったと記憶する。『日本の既成の規則だった事務所で働くのは窮屈だから、無給でいいから、私の事務所(未だ形ができていない)で働いてみたい』との申し入れがあった。・・・」・・・平田重雄であった。
・翌日、製図台の上に久留米の石橋徳次郎邸の平面図が載っていて、「君、このプランにスパニッシュスタイルのエレベーションをスケッチしてごらん」といわれました。」(平田重雄による弔辞の中の言葉)
・この石橋邸と下田の 三井別邸は、ともに現存し、スパニッシュスタイルと呼ばれる、瀟洒な様式によるものである。スパニッシュ様式とは、文字どおりにはスペイン風の建築様式であるが、サンタフェ・スタイルという言葉がある通り、これはアメリカ経由のスペイン様式と考えたほうがよい。因みにサンタフェは現在のニューメキシコ州の都市であり、かつてスペインが北米大陸に植民地を形成していた時代の首都であった。ここは、植民地を形成した1610年から、米西戦争の勝利によってアメリカがスペイン植民地を奪取する1848年まで、スペイン文化圏であった。
・「日本に帰ってまさかスパニッシュスタイルをやらされるとは思わなかった(笑声)。だから、はじめてスパニッシュとか、ああいうスタイル、伝統的なものを勉強したのは事務所の仕事をやり出してからだったですね。アメリカから参考書を取り寄せて一生懸命首っ引きで原寸を画いたことを覚えています。大体僕としてはそういうものにあまり興味をもたなかったんですね。しかしアメリカの当時の様式として実際に建てられているのはああいう建物ばかりだったんですよ。」(平田重雄回想録)
・「アメリカの大学でわれわれが上級生になったころから、非常にいわゆるモダンになってきた傾向があって、移り変わりのはげしい時代だったんですね。」平田重雄回想録)
・石橋徳次郎邸とほとんど時を同じくして、自ら設計した自邸(広尾・平田重雄自邸)において、スパニッシュ様式を試みている。・・・瞬く間に習熟し、自家薬籠中のものとしたのである。
・1937(昭和12)年 に松田建築事務所が竣工させた田島繁次郎邸もまた、スパニッシュ様式の邸宅である。・・・ゆるい勾配の屋根をスレート葺きとし、軒の出の少ない全館でまとめられている。外壁はタイル貼り、隅の部分を強調したデザインになっているが、外観構成は、平田邸(広尾)に似通うものがある。
・1935年の麻布永坂・石橋正二郎邸(現アメリカ公使邸)では、それまでのスパニッシュ様式に替わってアールデコのスタイルを帯びた鉄筋コンクリート造のモダンな様式が採用される。
・この時期の事務所の雰囲気を、前述の小坂秀雄はこう述べる。「当時の事務所のデザインは松田先生と平田先生が直接多くやっておられたが、平田先生のスケッチが一作毎にモダーンになってゆくのを見て吾々若い所員は非常に勇気付けられることができた。」
・1981(昭和56)年12月の『新建築臨時増刊 日本の建築家』は、建築家の経歴と、現存する建築家に対するアンケート・・・そのなかの「主な作品」という項目に対して、彼はこう答える。「平田別荘(箱根仙石原・平田重雄別邸)の建築・家具・造園計画。1934年造園家齋藤勝雄と共にはじめ、1936年第一次計画竣工以来50年にわたり現在も増改築中。」・・・ここにも邸宅建築から出発した建築家の心意気と初心が横溢していると見るべきであろう。戦後の大組織設計事務所を創出したふたり(松田平田)は、自己の出発点であった 邸宅建築への思いを失うことがなかったのである。そこに彼らのバックボーンがあった。
*出典「松田平田設計:草創と継承」2001年松田平田設計
小坂秀雄:1935年に東京帝国大学を卒業して松田平田設計事務所に入所。戦後は郵政省の建築設計の中心となる。
発行:2001年9月10日
企画:株式会社松田平田設計
〒107-8448
東京都港区元赤坂1-5-17
TEL03-3403-6161
編集:馬場璋造、石堂威
撮影:小林浩志
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