泉屋博古館分館で「木島櫻谷(このしま おうこく)―京都日本画の俊英―」を観てきました。観に行ったのは、1月23日のことです。
まず順路の通り展示室2に入ると、目に入ったのが木島櫻谷の「雪中梅花」でした。三井記念美術館で毎年お正月に展示される、あの円山応挙の「国宝 雪松図屏風」を思わせるような作品です。雪の中、梅の大木が左右から伸びています。紅梅はまだ多くがつぼみで、春を告げる咲き始めの頃の情景であろう。上質な金地に顔料の発色も美しく、よどみない運筆で描かれた屏風です。
実は家に帰るまで木島櫻谷の名前は初耳で、京都には凄い画家がいたんだと驚いていました。ところが調べてみると、もう何度となく泉屋博古館分館で、櫻谷の屏風を観ていたことがわかりました。なにしろ僕が初めて泉屋博古館分館を訪れた2009年2月に、開催していた展覧会が「近代の屏風絵―煌めきの空間―」でした。そこで初めて櫻谷の「竹林白鶴」に出会い、屏風の持つ素晴らしさを実感したというわけです。今回、櫻谷の作品をまとまって観ることができたのは、僕にとっては素晴らしい経験でした。
大正元年の作品「寒月」、図録によると、以下のようにあります。一面雪に覆われた夜の竹林を、下弦の月が明るく照らします。雪の重みに倒れた細竹、広葉樹の茂み、花を残す下草、すべてがシルエットになったモノクロームの世界に、一頭の狐が現れます。周囲に気を配りながら一歩一歩雪に足をうずめて進みます。冴え渡る静寂な空気と、それを破る鋭い目に孤独な生命。その対比は言葉を越えて、深い印象を与えます。
この「寒月」という作品を、夏目漱石は嫌ったという。漱石は櫻谷の「若葉の山」という作品の鹿を気持ちが悪くなるとして、「『寒月』も不愉快な点においては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹とそれから狐だかなんだか動物が1匹いる。その月は寒いでしょうと云っている。竹は夜でしょうと云っている。ところが動物は昼間ですと答えている。とにかく屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」と、酷評しています。(野地攻一郎「漱石先生、そんなに櫻谷の絵はお嫌いですか?」より)
野地は次のように言う。技巧を超えた気韻ある表現を求めたヘタウマな絵が好みの漱石にとって、櫻谷のような技巧に技巧を重ねたような写実的な絵はウマヘタなものとして腐したかったのだろう。だが、意に反してこの櫻谷の「寒月」は最高の二等賞となった。審査員側、つまりは国として現代の、それも「新しい日本画」を表象するものとして推奨を受けたことになる。こうした事態を漱石は、「してみると自分は画が解るようでもある。また解らないようでもある。それを逆にいうと、審査員は画が解らないようでもある。また解るようでもある」と結んでいる。と。
「震(振)威八荒」とは支配者の意向が世界にあまねく及ぶことをいう。鳥類の王である鷲鷹に天皇を仮託する好画題として、特に明治以降くり返し描かれてきました。櫻谷の「震威八荒図」、ここでは湾曲した松の幹に鋭い爪をたて、足下をにらむ熊鷹をとらえる。羽毛の模様などの精密な描写は見事だが、鷹の表情がどこか優しい。背景の一部にかすかな金泥を刷き、蝋色塗の縁やいぶし銀の金具も相まって、品格ある大衝立となっています。
こんなものをテーマに採り上げるのかと驚いたのが、二つ。ひとつは、明治42年に描いた「和楽」、右に農家の軒先でくつろぐ家族や仔牛、左に家路の農婦と迎える子どもを描いています。労働前後の和みの時であろう。もうひとつは、大正11年に描いた「行路難」です。大きな荷物を抱え疲れ果てた一行。旅の途中か、はたまた夜逃げか、ともかく「行く道難し」の状況である。右には繁茂する柳、視点の高さも異なり、まったく脈絡がありません。衰退と繁栄を左右で暗示的に対比しています。
今回の図録、解説が素晴らしい。実方葉子(泉屋博古館学芸課主査)の「画三昧への道―木島櫻谷の生涯」は、1.生い立ち、2.景年時代、3.龍池時代、4.衣笠時代前期(大正の頃)、5.衣笠時代後期(昭和の頃)、6.櫻谷の芸術観、として、(まだ十分に読みこなしていませんが)詳細に書かれています。僕がもっとも興味をもったのは、清水重敦(京都工芸繊維大学准教授)の「山中の市居―旧木島櫻谷邸の建築」でした。うろ覚えでしたが、「衣笠邸」あるいは「衣笠の住居」という言葉が、どういうつながりからかは分かりませんが、なぜか僕の耳に残っていました。
旧木島櫻谷邸は、衣笠小松原の地(現在は等持院東町)にありました。この地に開発の手がおよんだのは明治末年のことです。綿織物業で財をなした藤村岩次郎によって住宅地「衣笠園」の開発が行われたのが一つの契機となりました。志賀直哉も一時住んだという。この地に注目したのが日本画家たちでした。木島櫻谷の他に、菊池芳文、契月親子、土田麦僊、村上華岳などが移り住んだという。衣笠に移住した画家たちには共通点があった。文展に対抗して国画創作協会を起こした中心人物はいずれも衣笠移住組でした。衣笠の地は、京都画壇に新風を送り込む場という新しい意味をおびていました。
清水によると、旧櫻谷邸の主屋は内部意匠だけを採り上げれば、いかにも近代京都の典型的邸宅のように見えるが、その平面は農家の多の字形であり、平面の田舎風と内部意匠の洗練された京風とが、折り重ねられているのである、という。櫻谷邸の建築は、不思議な折衷に溢れている。そのどこにも、大工の工夫というよりは、櫻谷自身の好みがあらわれている、と続けます。
ここでの櫻谷の暮らしは、京都洛中の暮らしに求められた「市中の山居」を反転するような、いうなれば「山中の市居」とでも呼ぶべきものだったのかもしれない。市中の暮らしを郊外の里山に持ち込み、それでいて土地に溶け込むような暮らし。そんな櫻谷の志向が、櫻谷邸の建物のそこかしこからじわりと伝わってくると、結んでいます。
「木島櫻谷―京都日本画の俊英―」
どこまでも優しいまなざし、からみつく柔らかな毛並み――透徹した自然観察と詩情の調和した品格ある日本画で、明治から昭和の京都画壇の第一人者とされた木島櫻谷(1877-1938)。ことにその動物画は、いまなお私たちをひきつけてやみません。京都三条室町に生まれ、まるやや四条派の流れをくむ今尾景年のもとでいち早く才能を開花させた櫻谷は、明治後半から大正には人物画や花鳥画で文展の花形として活躍、続く帝展では審査員を務めるなど多忙な日々を送りました。しかし50歳頃からは次第に画壇と距離をとり、郊外の自邸での書物に囲まれた文雅生活のなか、瀟洒な南画風の境地にいたりました。徹底した写生、卓越した筆技、呉服の町育ちのデザイン感覚、そして生涯保ち続けた文人の精神。そこにかもし出される清潔で華奢な情趣は、京都文化の上澄みとでもいえるでしょうか。本展は各時期の代表作を中心に、公益財団法人櫻谷文庫の未公開資料もあわせ、櫻谷の多彩な画業を振り返るものです。
図録
平成25年10月26日発行
財団法人櫻谷文庫は、明治から大正にかけて活躍、注目された日本画科木島桜谷の遺作、習作やスケッチ帖、桜谷の収集した絵画、書、漢籍、典籍、儒学などの書籍1万点以上を収蔵、それらを生理研究並びに美術、芸術、文化振興のために昭和15年に設立されました。櫻谷文庫は、大正初期に建築された和館、洋館、画室の3棟からなり、いずれも国登録有形文化財に指定されています。
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