守山忍の「隙間」(「文學界」2012年12月号)を読みました。第115回文學界新人賞受賞作です。 いつもなら「選評」を読んでから受賞作を読むのですが、今回はまったく予断なく一気に読み終わりました。守山忍は略歴によると、1986年9月16日生まれの26歳、大阪府出身、短期大学卒業、現在、フリーター、大阪府在住、とあります。それにしても若い、これだけの谷崎風の作品を書く力量は素晴らしく、将来に期待が持てます。
守山忍の「隙間」は、「わずかに開いた襖の隙間から、妻が顔に、丹念にファンデーションを塗りつけていくのが見えた」と、隣の部屋で化粧している妻を、覗き見する場面から始まります。化粧が完成し、縛っていた髪を解き、鏡台から立ち上がると、見ていた夫は妻に気づかれるのを恐れて、襖の陰に隠れました。出産のために実家に帰った妻と、その夫の間には、微妙な緊張が漂います。実家には30を過ぎた教師をしている未婚の姉がいます。また影の薄い両親も住んでいます。
姉と対すると、夫はいつも、彼女が自分を快く思っていないのではないかといった疑念が胸を掠めます。妻との結婚が決まり、家族の紹介した時からずっとそうでした。だからといって姉は露骨に彼を避けるようなことはしません。だが、言葉の端はしに、彼を容認しない余所余所しさがありました。妻は、妊娠が判明したときには、即座に母になることを決めたにもかかわらず、日が経つにつれ、その決心が大きく揺らいでくるのを感じていました。30を過ぎても未婚の姉を見ていると、妊娠も結婚もせずにいた自分を想像せずにはいられません。姉が自分を羨んだなら、どんなにか救われただろうと、妻は思います。
今朝、義父母が出勤するのを見送った夫は、妻に声をかけて家を出ました。植木市を覗いてみるつもりだったが、玄関先から庭にまわり、生け垣と石組みの僅かな空間に潜り込みました。妻が仰向けに寝そべっているのが見えます。外を眺めていた妻にある考えがひらめきます。急いで台所にとって返すと、茶がなみなみと満たされている湯呑みを手に戻ってきます。湯呑みは姉のものです。妻は口中に唾を溜め、薄く唇を開き、口中の唾を湯呑みに落とします。突然物音がして庭木が大きく揺れます。雨に濡れて返ってきた姉は、妻が差し出した湯呑みを見て一瞬はっと瞠目したように見えましたが、中身を一気に流し込みました。
姉が風邪をひいた同僚教師の代わりに夏休み中の学校に出勤すると、妻はうつらうつらと舟を漕いでは目を覚まします。妻はワンピースを着込んで、顔には化粧も施しています。もつれ合い、じゃれ合う姉がいません。隣の部屋には、雨が降り外出を取り止めた夫がいます。いつの間にか、部屋を仕切る襖が細く開いています。その隙間から濡れたように光る黒い目が、一瞬垣間見えました。黒い目は期待に満ちて、肌に纏いついてきて、妻は息苦しさに喘ぎました。
何かしなくてはならない。だが、何を? 一人では何をすればいいのか分からない。だから、気づかないふりをして、じっと庭を眺め続けます。夫が何を目的にして、自分を見ているのか分からず、何をすれば満足させることができるのか、まるで見当が付きません。夫がこそこそ見てくるものだから、気づかないふりをして、自然に振る舞ってきました。夫はもちろん、気づかれていることを知っているし、妻も夫に知られていることを承知しています。それでいてあえて口には出さず、お互いの役割に忠実であろうとしてきました。
はじめのころは、なんて陰険な趣味なのだと心底軽蔑していたが、それを夫の関心をつなぎ止める手段として利用している自分だって、人のことを言えたものではない。だが、ひょっとすると、夫は自分に興味を持っていたからではなく、姉を見ていたのかもしれない。姉に対してわがままを言う自分を叱らなくなったのは、堂々と姉を見る口実ができたからではないかと、思い至ります。
知人に会うという夫を玄関で送り出すと、妻は姉を呼びつけ、姉は飛んでやって来ます。いつものように二人は妻の部屋でただ漫然と時を過ごします。妻は姉の様子をうかがい、姉もそれを知っていて、見られることに堪えていました。休暇が終わる夫は今夜には、一旦赴任先へと帰ってしまいます。もう何度も妻は興奮に叫びだしたい衝動に駆られ、何とか思いとどまるのを繰り返していました。姉も同じです。だが緊張を相手に気取られるのは、自分の負けを認めるようで癪でした。これは根比べだと、妻は思いました。
妻は、急に全てが馬鹿らしくなります。姉に近づき、寝転んだままの姉の身体を跨ぎ、どしんと尻を降ろします。「ちょっと、何すんの」「何で庭ばかり気にしてんの」「気にしてなんてないわ、それより、降りてって」、姉は本当に辛そうな様子を見せたので、尻を腿の上までずらします。一瞬、姉の尻の上に自分の尻が乗って、生々しい肉の感触にはっと息を飲みます。姉の驚いた気配が伝わってきます。妻は「うそつき」と言い、姉の尻を平手で叩きます。叩けば叩くほど笑い声は高まります。
姉のスカートは捲れ上がり、レースのショーツが覗いていました。妻はショーツのウエストゴムを掴むと、躊躇なく引きずり下ろし、半分だけ剝かれた尻を平手で叩きます。尻は西日の中でも分かるほど、真っ赤に腫れ上がっていて、それがますます笑いを誘いました。夫が帰ってきたらしく、砂利を踏む音が、猪突に二人を我れに返らせました。玄関まで妻は夫を迎えに出ます。奥から姉も出てきてゆったりと「おかえりなさい」と言います。姉は涼しげに微笑んだが、その頬がわずかに上気しているのを、妻は見逃さなかった。
選考委員の吉田修一は、読後「なんだか不潔な小説だな」という印象を持ったという。登場人物それぞれの思い(思い込み)、会話、空間などが、とにかく不潔ったらしくて妙に目が話せなくなる。みんな、結局何をしたいのか分からない。おそらく本人たちも分かっていない。不潔に見えた世界が読んでいくうちに、なんとも幼稚で純粋で好奇心に満ちた世界に見えてくる。そして個人的にはと断って、「襖の隙間」=「妊娠中の女性器」と読んだという。
同じく選考委員の角田光代は、「隙間」は妻を覗き見る夫、見られていることを知っている妻を描いています。そこに妻の姉がまじり、妻は夫が見ていることを知って、姉と必要以上にじゃれ合う。この家には影は薄いが両親も住んでおり、その影の薄さもまた気持ちが悪い。ゆがんだ夫婦関係より、この気味の悪さが印象に残る作品であるとしています。また、夫の覗きをもっと執拗に描いても良かったと思う、歪んだ色情のいやらしさをもっと書いてほしかったと、しています。
同じく松浦寿輝は、妊娠して帰省中の妻の実家に滞在する夫は、薄い襖一枚を隔てた向こう側に微妙に排除された自分を感じ、覗き見の繰り返しによってその排除に抗おうとする。他方、妻とその姉との間には、妬みと甘え、牽引と反撥がないまぜになった、かすかに性愛の匂いを漂わせる相互依存があり、結果として妻=義姉=夫の間に一種倒錯的な三角関係が生じる。「妻の身体」という虚の焦点をめぐって、夫と義姉とが面妖な心理戦を行っているようでもある、としています
すべての選考委員が、谷崎潤一郎の「卍」や「鍵」と似通っていることを指摘しています。僕もこの作品を読んでいるときにはそう思いました。松浦理恵子は作者は単に物語や題材のレベルでしか谷崎からインスパイアを受けていないと厳しくき言い放ちます。