玄侑宗久の「桃太郎のユーウツ」(朝日新聞出版:2023年12月30日第1刷発行)を読みました。
篠田節子:
理不尽な一撃で、よって立つ風土そのものが奪われた。静かな絶望と人生を取り戻すためのささやかな戦い。「寓話」とは呼ぶまい。地域に根を下ろした作家の切実な問いかけだ。
道尾秀介:
六つの短編はどれも第一級のクオリティを持つ。配列順に異様さを増し、最終話の「桃太郎のユーウツ」で、誰もが忘れがたい放心を味わうことになるだろう。
福島在住の僧侶作家が震災、コロナ禍のもとで、大きなユーウツと見え隠れする希望を描く6つの作品集。
ユーウツな桃太郎はどこへ行く、
鬼とはいったい誰なのか。
どんな大事件も元を辿れば個人的あるいは社会的ユーウツに行き着くのではないか。放置されて積み重なり、増殖しつづけたユーウツこそが、やがて諸刃の剣として自殺や無差別殺人なども引き起こすのではないだろうか。(「あとがき」より)
目次
セロファン
聖夜
火男おどり
うんたらかんまん
繭の家
桃太郎のユーウツ
あとがき
蛇足ながらとして、六作について現在の心境を書き留めておきたい、とある。
「セロファン」は、それこそ私の僧侶としての日常からの呟きと言っていい。「セロファン」については本気で「なくなれば」と思うこともあるが、多彩な経験のうちにやがて叫びは封印されていく。しかし葬儀業界の諸氏には是非とも真剣に代替案や対応策を考えてみてほしい。
「聖夜」では、震災から五年という半端な環境が深海のように福島県民を包む。客のいない日帰り温泉でたまたま聖夜と知り、イエスに思いをはせる住職夫妻だが、彼らが求めるのはむしろちんどん屋・・・。神に讃美者が必要だったように。
「火男おどり」は百万円のお賽銭をめぐるちょっと異様な話。これも震災による避難の常態化、そしてコロナ禍による接触忌避の孤独な時がなければ生まれなかったに違いない。孤独を一時的にでも解消する贅沢な手立てを見取っていただければと思う。ただ物語終焉のあとには、さらに深い孤独が待っている気配も…。
「うんたらかんまん」はもとより主人公の父が間違えれ覚えた咒文だ。ここでは人間、とりわけ男のなかに潜む覇権への欲望、修羅の気配を、一つの事件にかかわる男二人の出遭いのなかで書いてみたいと思った。書き終えて掲載されるとまもなく、ロシアによるウクライナ侵攻が始まったのである。私は奇しくも時代とのシンクロを感じた。
「繭の家」も異様な近未来の物語だ。しかし近未来とは、「今」に潜む微かな気配の拡張だろう。「独り暮らし基本法」の下、国に直接管理されるヒトはいかにして命の交流を保つのか。博打のように求められるアニマだが、成否は予測不能である。むろんこんな世界になってほしくはないが、他人と会話できない子供の増加は明らかにそれを予感させる。
「桃太郎のユーウツ」は、輪廻による蓄積のなかで、「ユーウツ」がついに爆発する瞬間までの物語である。標題作に選んだのは、おそらくこのタイトルが最も現代を映していると思えたからだろう。元総理がテロに遭うこの話は、今となれば山上徹也被告人による安倍元総理射撃事件を想起させる。ここでは、桃太郎という周知のキャラを設定することで、ユーウツの根本解明よりも鬱積から爆発へ向かう行動を中心に描写した。おそらく読者諸氏のなかには、もっともっと原因不明で対処法もわからないユーウツが巣くっているに違いない。桃太郎であるがゆえに迷わずに済む局面でも、あなたは迷いに迷い、そしてテロは起こさないだろう。しかし激変する「人新生」に暮らす以上、我々がユーウツであることは避けられないのではないか。
この作品を書いたのは2016年、日本ではまだ微かなテロの予兆だけが感じられる時代だ。しかし今や鬱積したユーウツがいつどこで爆発してもおかしくない。ユーウツとは最も遠く離れた桃太郎までがユーウツな時代なのである。
玄侑宗久:
1956年福島県三春町生まれ。慶應義塾大学中国文学科卒業。さまざまな仕事を体験後、京都天龍寺専門道場に入門。現在は臨済宗妙心寺派福聚寺住職。2001年「中陰の花」で芥川賞。2014年、震災に見舞われた人びとの姿と心情を描いた「光の山」で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。作品に「阿修羅」「四雁川流景」「荘子と遊ぶ―禅的思考の源流へ」「無常という力―「方丈記」に学ぶ心の在り方」「新版 さすらいの仏教語」「やがて死ぬけしき―現代日本における死に方・生き方 増補版」ほか多数。2007年、柳沢桂子との往復書簡「般若心経 いのちの対話」で文藝春秋読者賞、2009年、妙心寺派宗門文化章、2012年、仏教伝道文化賞、沼田奨励賞受賞。
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