下郷町の「大内宿」へ行ってきました。以前、僕が行ったのは2003年夏のこと、今から11年前のことでした。以下、過去に書いた記事から引用して載せておきます。
会津若松から南へ25km、JR只見線と会津鉄道を下って約40分湯野上温泉駅へ、そこからから山懐を西へ約6km、標高差約200m昇り、広田タクシー「猿游(さるゆう)号」で約15分、大内宿へ。旧道は日光街道の延長として今市と会津若松を結び、下野街道、会津西街道と呼ばれていました。江戸時代は会津の重要な宿場町として宿屋が軒を連ね、多くの旅人で賑わった大内宿ですが、時代の変遷とともに街道も宿場町も衰退していきました。
明治17年、現在の国道121号線の開通は大内宿には決定的でした。大内宿は人々から忘れ去られ取り残されて、村人はひっそりと暮らし続けてきました。それが結果的には江戸時代からの茅葺き屋根の宿場の面影を奇跡的に保存することにもなったのです。昭和56年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。宿場町としては中山道の妻籠、奈良井に続く三番目の選定です。
大内宿の発見者は武蔵野美術大学民族学研究室の相沢韶男氏で、昭和44年の実測調査で精巧な実測図が作成されています。僕が若い頃、創刊して間もない鹿島出版会の「都市住宅」という雑誌を毎月とっていたんですが、その「都市住宅」に大内宿の実測図が付録として付いていたことを思い出して本棚を探したら、なんとB1版の実測図が出てきました。「都市住宅」昭和44年12月号の付録でした。これは「お宝」ですね。その頃は「デザイン・サーべイ」ということで、全国の古い町を実測して資料として残そうという動きが活発な時期でした。
幅6mの道路とその両側に側溝、さらに4.5mの馬繋ぎ場を隔てて東西の茅葺きの家並みと突き当たりの一軒とで構成される景観は、南側からの訪問者にとって、ありし日の宿場の面影を彷彿させるに充分です。戸数は約50戸、北から南の宿はずれまで約450m、その高低差は約10m、電柱が一本もなく、通りを端まで歩いても約10分ほどで散策できます。通り北側のはずれの階段を昇った神社横から見下ろした眺めは絶景で、宿場の全景が見渡せます。
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