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日仏会館で「ヴァロットン―冷たい炎の画家」を聞く!

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主催:日仏会館・フランス事務所・日本研究センター

イベント名:ヴァロットン―冷たい炎の画家

   三菱一号館美術館ヴァロットン展関連講演会

   講師:マリナ・デュクレイ

    (フェリックス・ヴァロットン財団名誉学芸員)

   司会:三浦篤(東京大学)

    (同時通訳付)

日時:2014年6月15日(日) 14:00~16:00

会場:1階ホール


・司会三浦氏より概要説明、関係者紹介

・高橋館長挨拶

 「ヴァロットン展」昨日オープニングが行われた。珍しい展覧会。

 ヴァロットンはナビ派と共に活躍していたが、なぜか忘れられていった画家。

 この展覧会はヴァロットンの日本初の回顧展です。

 オルセー美術館およびフェリックス・ヴァロットン財団の監修による国際レベルの展覧会として、
 グラン・パレ(フランス・パリ)、ゴッホ美術館(オランダ・アムステルダム)を巡回。

 パリでは31万人が熱狂し、評価がガラッと変わった画家。

 マリナさんのカタログは、書籍のグランプリを取った。

 ローザンヌのヴァロットン財団で、展覧会に関わってきた人。


以下、マリナ・デュクレイ氏の講演会要旨

(同時通訳を通してなので、聞き取れなかったことも多々ありますが・・・。)


日本でヴァロットンについて話をするのは大変光栄です。

ヴァロットンについて、おおよそ次のように3つに分けて話します。

・名声の獲得

・ナビ派と共に

・新しい表現手段の探求


第一部:

ヴァロットンの1891年の木版画は、前衛・アヴァンギャルド側から認められる。

ジュール・ルフェーベルやハンス・ホルバインに認められる。

「20歳の自画像」1885年を描く。

「シルクハットの自画像?」1887年、弱冠22歳でアカデミズムと決別。

1890年、ボザール校で日本の版画展があった。

シャルル・モランがヴァロットンに版画を薦めた。

詩人ヴェルレーヌを描いた初期の木版画2枚が認められた。

新木版画家として称賛される。1892年、12点の木版画。

「薔薇十字会の展覧会」、白と黒の様式に魅了された。

アンデパンダン展「街頭でも?」白黒のみ。

ナビ派とも行動を共にする。

1894年頃から新聞、雑誌の仕事が多くなる。

「3人の浴女?」1894年、「仮面」10点など

フランス国内外で評価される。

挿絵画家として売れっ子になり、木版画が少なくなる。

白と黒を強調し、ジャポニズムの影響で総合芸術を目指す。

「群衆、パリの野獣たち?」1896年

ヴィヤールへの手紙

10枚の連作「アンチミテ?」はヴァロットンの傑作。

アメリカでも版画家、挿絵画家として知られるようになる。


第二部:

ナビ派の画家ヴァロットン

ヴィヤールへの手紙

「私は画家としても素質がある」

ヴァロットンの作品は、ルソーともデューラーとも共通する。

「肖像画」、印象派とは正反対。

スイス生まれ、パリで生きた二つの感性を持つ「外国人のナビ派」

「ゴデスカの肖像?」を何枚も描く。

「夏の宵の水浴」は奥行きもなく空もない。象徴的に解釈。

「La Vaise 1893」ワルツを踊る人々。浮世絵の人物と比較。

奥行きにない、アールヌーヴォー的な曲線。

色彩の象徴主義。美の規範を重視していない。

「女性1897」ポケットカメラを使う。ナビ派は写真を撮り始める。

写真に基づき何枚かの作品を描く。

「ボール」、別称「公園の片隅、ボール遊びをする子供」1899年

影が子供を追いかけている(チラシの絵)。

「都市の光景」写真のように一部分が欠けているように見える。

「洗濯女」「ブルジョアの女性」など、職業に注目したりもします。

意図的に装飾的に。「公園・夕暮れ」

「Le Bon Marohe 1898」三連画

レンブラントを意識


第三部:

刷新、ガブリエルとの結婚。

まだ版画家としてしか知られていなかった。

新しい表現手段の探求。

コダックカメラで海水浴客や家族を。

「5人の肖像画」1902-1903、本質的な特徴を捉えた。

「セーヌ川のほとりの景色」1901、斜めの構図。

1904年末、造形的な意味として大型の裸婦を描く。

写真のような絵画、無名のモデルの水浴、読書。

様式化された次元。見る者を2次元的に。

「モデルの休息」1897年

あらゆるジャンルで力を競えた。

「シュザンヌと好色な・・・」1922、高級娼婦を描く。男女の性。

「龍を対峙するベルセウス」1910、アンドロメダ、中年女性。

「かがんだヴィーナス」、批評家からは評価されなかった。

1909「沼」、あらゆる空と地平線を排除。

1917年、軍の芸術広報員として活動。

「ベルダン?」戦争という現象。

ヴァロットンは、色彩として新たな一歩を踏み出す。

「化粧台」、「イーゼルと・・・」1925

ヴァロットン自身を見ることになる。

「La Fenne qu chevalet」1925

版画家から画家へとして出発する。

ジャポニズムの影響。


質問:

ヴァロットンは絵や版画以外、劇作と小説を書いているが、評価は?

「殺人の人生」、「シプリアモリスの・・・」等々。

レジオン・ドヌール章を受賞している。ヴァロットンはマルチタレント。


質問:

ヴァロットンの版画について?

日本の浮世絵の展覧会は、色のついた多色刷り。

ヴァロットンは白黒。

ヴァロットンの特色は、一生を通じてどの派にも属さなかった。

「美術は、・・・唯一、表現の仕方が変わる」

報道用の版画などは、1903年に売るときに後から色をつけた。

ヴァロットンは柔らかい版木を使った。あまり細かいことはできなかった。

「新しい木版画家」と言われた。


質問:

ヴァロットンは彫刻を作っていたのか?

ヴァロットンはプラスチックで作った。元々は6点、鋳造した。

壊した彫刻は何点か分からない。


質問:なぜ「冷たい炎の画家」と言われたのか?

美術評論家が書いた。それは滑らかな絵だから。ゴッホは厚塗り。

ゴーガンは「1kgの青の絵の具を使う理由はない。500gでも私は描ける」と言った。


質問:

2005年のマリナの著作は、日本語または英語になってないのか?

今さら訳したりするのは大変な労力がいるので、翻訳は止めた。


質問:

フランスでも展覧会が人気があったが、どういうところがよかったのか?

生前からヴァロットンはとても人気作家だった。

「トルコ風呂」などは人気があった。

亡くなってから「反動家」と見なされた。

「彼はある種の先駆者だった」とある批評家は言う。

フランス人としてはハードだった。


質問:(三浦)

ヴァロットンは最初はアカデミー・ジュリアンで学ぶ。

ジュール・ルフェーベルに評価される。

アカデミックから写実的な画家になるが・・・。

私(マリナ)はそうは思わない。

展覧会を見れば分かると思う。本当に写真のように見える。

1902年、ナビの最後、総合主義。

ディテールが無くなって、簡素化している。

その後ルフェーベルとは不仲になる。やっぱりアカデミズムの人なんです。


質問:(三浦)

もう一つ、関連して。

最後のヌードなどはシュールレアリスムの先取り。

そうですね。シュールというときつすぎるが、シュール・ナチュラル。

モデルを呼んで、クロッキーを何枚も描く。

たくさんの中から一枚を選ぶ。

アトリエの中で背景を描き、モデルを入れ込む。


質問:(高橋)

ポップアートのジェネレーションを経て、新しい・・・。

ヴァロットンの愛好者が評価する目が生まれたと言っていた。

マンガなど、新しい表現が生まれてきた。

30年代の共通性、エドワード・ホッパーなど。

カタログの中で“コジュヴァ”が映画との類似を言っているが、

それは本当に明らか。30年、40年早かった。

ヴァロットン自身、映画をよく見ていた。コジュヴァさんの言ってる通り。

「水浴する女性」は、マンガの一コマのよう。

ヴァロットンは、顧客のために何かをつくるということはしませんでした。

多くのアーティストは、一度うけると量産するようになる。

ヴァロットンの大事なことは、フレーミング。


質問:(高橋)

都市生活者の孤独とか畏れを扱っているので、内容的な類似がある。


質問:

ヴァロットンと女性の問題は?

女性との距離感。奥さんのガブリエルとの関係。

ヴァロットンと女性で本が一冊書ける。

ヴァロットンの最初の伝記は女性が書いている。

著者はヴァロットンにプラトニックな感情を持っていた人。

奥さんに対しては厳しいことを書いている。

奥さんの父親、岳父は厳しく財産の管理をしていた。

版画から絵を描くようになるのは、生活費を折半していたから。

ヴァロットンはケチで、奥さんは浪費家。

ヴァロットンはけっこうイライラしていた。

それ以外の女性とはどうだったか?

奥さんはプロテスタントで、モデルが裸になるのを厭がった。

ガールフレンドもたくさんいたし、庶民階級の女性もいた。

ヴァロットンは、けっこう女性関係があった。




「三菱一号館美術館」ホームページ


「ヴァロットン―冷たい炎の画家」ウェヴサイト



今年の4月末、フランスへ8日間、行ってきました。

最終日の4月29日(火)、オルセー美術館へ行くことができました。

ヴァロットンの作品は、「ボール」など、まとめて4点ほど観ることができました。

図録を購入したので、ヴァロットン関連の記事を、以下に載せておきます。


フェリックス・ヴァロットン「外国人のナビ」

ローザンヌに生まれたフェリックス・ヴァロットン(1865-1925)は1882年にパリに出て、アカデミー・ジュリアンに入る。1885年、彼は始めて絵画を発表し、「理性の本」の作成を始める。これは彼の作品を系統的に列挙したもので、死ぬまで彼はこれを続けることになる。生活費を得るために彼は絵画修復家になった。彼はトゥールーズ・ロートレックやヴュイヤールと知り合い、木版画の制作を始め、フランスはじめ外国の雑誌の編集者からも注文を受けるようになる。やがて彼は「ラ・ルヴュ・ブランシュ」誌の主要なイラストレーターになった。この雑誌の経営者はナタンソン兄弟で、彼らはこれを前衛芸術発表の場にしようと考えた。これを機にヴァロットンは広くナビ派の面々と知り合いになり、1892年にその運動に加わった。彼が特に親しかったのはヴュイヤールとボナールである。技術的に新しい試みを多く行った「外国人のナビ」はまた、絵画と同じくらい木版画も制作しており、油絵には木版の影響がかなり見られる。彼は厳しい目で主題を扱い、往々にして不安感を与えるほどフォルムを極限まで単純化し、面をマス(塊)として扱い、色の広がりで量感を示している。「彼は辛辣さを楽しむ」とジュール・ルナールはその「日記」に記している。「ボール」では、影を先行させながら、小さな赤いボールを追って走る子供のシルエットが、地平線もなく不安を感じさせる広い空間の中にポツンと小さく描かれている。「シャトレ劇場の4階桟敷」では、ほとんど空席の観客席がやはり空白感を与えており、遠近法もデフォルメされている。1899年に彼はアレクサンドル・ベルネームという大画商の娘と結婚し、それまで辛辣に批判し続けていたブルジョワ階級の仲間入りすることになる。こうして彼の絵画はナビ派から離れ、冷たく風変わりな写実主義へと変わってゆく。



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