高橋源一郎の「ぼくらの戦争なんだぜ」(朝日新書:2022年8月30日第1刷発行)を読みました。
教科書を読む。「戦争小説」を読む。戦争詩を読む。すると、考えたこともなかった景色が見えてくる。人びとを戦争に駆り立てることばの正体が見えてくる。
古いニッポンの教科書、世界の教科書を読み、戦争文学の極北「野火」、林芙美子の従軍記を読む。太宰治が作品の中に埋め込んだ、秘密のサインを読む。戦意高揚の国策詩集と、市井の兵士の手づくりの詩集、その超えられない断絶に橋をかける。「彼らの戦争」ではなく「ぼくらの戦争」にふれるために。
「戦争」について知ろうとすること。それは、ぼくたちの「過去」について知ろうとすることだった。つまり、ぼくたちが、どこから来たのかを知ろうとすることだった。どこから来たのかがわからなければ、どこにも行くことができないのだ。(「まえがき」より)
高橋は、大岡昇平の「野火」を絶賛する。
「戦争」について書かれた、日本語の小説としては、もしかしたらNO・1かもしれない。世界の戦争小説の中でも屈指の傑作だろう。それは、ほんとうに素晴らしい小説だ。・・・「正しくない」戦争について書かれた、「正しい」小説。
もちろん、その小説は、大岡昇平の「野火」だ。・・・たった一つだけ、「戦争小説」を選ぶとするなら、やはり、ぼくは、「野火」だと思うのである。
「野火」を読んでみよう。いま、ぼくたちには、なによりそのことが必要なのだと、ぼくには思えた。太平洋戦争末期のフィリピンが舞台だ。圧倒的に優勢なアメリカ軍の前に劣勢となった日本軍は、敗走を重ねる。すでに軍隊として統制のとれなくなった兵士たちは、ひとりひとりばらばらになって、思い思いの行動に走る。武器もなく、なにより食料もなくなった兵士たちにとって、最後に残るのは、本能的な「生き残る」という意志だけだった。しかし、それでも、戦闘はまだ続いていたのである。
以降、高橋は「野火」を詳細に読み込んでいきます。
第5章は「戦争小説家」太宰治、そうきたか!
いくつもの年表を重ね合わせてみると、わかることがある。生まれてからずっと、戦争の影の下で暮らしてきた。そして、小説を書きはじめてからは、ずっと戦争だった。なにかを書くということは、思う通りに書く、ということではなかった。なにかを書くとき、なにかが身の上に降りかかることを覚悟しなければならなかった。なにかを発言することは簡単ではなかった。・・・そんなふうに生きてきた作家がいた。それが、太宰治だったのだ。
そのことは知っていた。しかし、それでもわからないことがある。それほどまでに、書くことが難しかった時代に生きて、なぜ、彼は、あれほどの傑作を書き続けるlことができたのだろう。・・・戦争に反対したい。絶対に反対したい。けれども、そのことをあからさまにかあくことは、絶対にできない。そういう時、作家は、どうすればいいのか。こうするのだ。太宰治は、そういっているように、僕には思えた。
ということで高橋は「十二月八日」、そして「散華」という太宰の二つの小説をわれわれに提示します。
「惜別」の直前に書かれた長篇小説「津軽」は、故郷青森を訪れた旅をテーマにした。そして、この小説の最後の文章は、この作品の中からではなく、その向こうから、太宰治が直接、「戦時下」の読者に向かって語りかけているように見える。彼は、そのすべての作品の中で、こう呟いていたのだ。「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日、元気で行こう。絶望するな。では、失敬」(「津軽」より)
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年生まれ。作家。明治学院大学名誉教授。横浜国立大学経済学部中退。88年「優雅で感傷的な日本野球」で三島由紀夫賞、2012年「さよならクリストファー・ロビン」で谷崎潤一郎賞受賞。著書に「ぼくらの民主主義なんだぜ」
「丘の上のバカ」「ゆっくりおやすみ、樹の下で」「一億三千万人のための『論語』教室」「たのしい知識ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代」ほか多数。2020年3月下旬よりNHK第一ラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」でパーソナリティをつとめる。
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二度結婚し、二度離婚した。
(ブログを始める前にはもっと読んでた)
朝日新聞:2022年8月13日
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